映画『Fukushima 50』と『チェルノブイリ』

映画『Fukushima 50』と『チェルノブイリ』

3月1日(土)に、パソコン上で5時間の大作『チェルノブイリ』を、3月9日(月)に映画館で『Fukushima 50』を見た。前者は1986年の事故から34年もの歳月が経過しており、後者は9年経過したのみという違いがある。また、それぞれの映画製作における国柄の違いもあるように思われるが、テイストがずいぶん違う。以下に率直な感想を記してみたい。

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1.重点の相異
『チェルノブイリ』は、事故の事実経過を客観的に描こうという姿勢が強い。対して『Fukushima 50』は、吉田所長以下の現場作業員たちを英雄として称揚することに力が傾き過ぎていて、他の関係者を必要以上に貶めていると思う。そのことが下記のいくつかの逸脱を生んでいる。そして映画全体の品位を損なっている。

(1)菅首相の言動が正確ではない
このことはすでに、菅首相の秘書を務めていた中川右介氏が指摘しておられるので、そちらをご覧いただきたい(「映画『Fukushima 50』はなぜこんな「事実の加工」をしたのか? ── 観客をミスリードする作り」)。また、「元首相は映画『Fukushima 50』をどう見たか 菅直人インタビュー」という記事も出ている。この映画は、東電テレビ会議にかなり依拠しているようだが、その映像を文書化した『東電テレビ会議49時間の記録』(宮崎・木村、岩波書店、2013年)には菅首相の言葉は載っていない(つまり、新聞各社に開示されたテレビ映像はその部分を削除されていた)。東電は今からでも、開示すべきである。

(2)現場運転員たちを持ち上げるためにほかの人々を貶めている
東電本店の人々も貶められている印象で、「それほど酷くもないだろう」と思った。意図はどうあれ、この事故は周りの人が悪いから悲劇的に展開していったのではなくて、原発の本質がこういうものなのだ、という基本的認識が希薄なのではないか。その意味で、『チェルノブイリ』ではレガソフを中心に据えて、最後は事故原因究明に焦点を当てていったので、大人の説得力を持っている。

(3)自衛隊もヒーローに含めている
3月14日晩に、吉田所長が協力会社社員に引き上げを勧めた際、自衛隊員の一隊(5人ほど?)が「われわれは残ります」と申し出ている。この事は筆者には初耳で、事実に基づいているのかフィクションなのかわからない。ただ、双葉病院から237人と医療スタッフが避難した際に、自衛隊員が途中でエスコートを止めて患者さんたちを置き去りにして避難した基準とは合致しない※1。また、自衛隊員が水補給の支援に来たときに、東電社員にオフサイトセンターまで迎えに来てアテンドせよと言った態度とも結びつかないので、疑問に思った※2。地元消防士が現場へ応援に入り、奮闘・消耗した話が最近、吉田千亜『孤塁』(岩波書店、2020年)で紹介されているが、外部支援チームを紹介するなら地元の公務員たちも紹介されたら良いのにと思った(ただし、消防隊がこのタイミングだったという訳ではない)。

(4)「トモダチ作戦」の実相は描かれず
米軍横田基地のヘリコプター部隊が「トモダチ作戦」として避難所に飲料水ペットボトルを運び込むシーンがあったが、それはマイナーな話で、横須賀基地所属の海軍艦船がサイト沖に出動して重い被ばくを受けた問題を入れないのは片手落ちと思った。

 

2.技術者とのテイストの違い
筆者は技術屋であり、映画を製作している業界の人々とはテイストが違うのは当たり前であろう。しかし描かれているのはプラントで働いている技術者たちであるので、野暮を承知で感想を述べる。

(1)技術者の人間像
役者のみなさんは実によく熱演していると思う。しかし、筆者を含めた普通の技術者たちはこれほど言葉がスムーズに出てこない。ブッキラボウだし、自分の言いたいこともなかなか言葉にならない。実際、上記の『東電テレビ会議49時間の記録』の記録を読んでいると、吉田所長と部下との間の会話がスムーズにいかなくて、「そんな大事なことはもっと早く言えよ」とか「そんなことをいちいちオレに聞くな」とか吉田所長が小言を言ったり、言葉がはっきりしなくて同じことを何度も聞き直したりというシーンがある。これを映画で見ると、役者さんたちが熱演して本当らしく演じれば演じるほど、予め事故のシナリオが分かっていたかのようにスムーズな言葉遣いや身のこなしに見えてしまう。この点については、『チェルノブイリ』の方が技術者たちや消防士たちが相互にスムーズな会話が成立していない状況が伝わっていて、本当らしく見えた。

(2)メロドラマの混入
ユニット長が「もう終わりか」と覚悟するシーンで、娘との間に結婚相手について確執があったのを急転直下解消してしまうメールを送り、それをまた後日避難所で確認して感激の再会をするという物語が入っている。それが実話かどうかは知らないが、出来過ぎの感がある。『チェルノブイリ』でも若い夫婦の悲劇が入っていて、消防士の夫がモスクワの集中治療室でじょじょに被ばく症状が悪化して死んでいく過程を、妻が毎日訪ねて見守っているシーンがあるが、乾いた感情で悲劇に迫っており、気持ちが一貫してドラマの本質に集中できる。突然、ホームドラマの父と娘の愛情物語が挿入されて、気持ちの混乱を来した。

(3)映画のパースペクティブ
『Fukushima 50』は、思いがけない現象が所々に発生して運転員たちがショックを受け、心を痛めるシーンがしばしば描かれている。しかし、それらの問題についての原因の解説(もしくは未解決であることの説明)がない。たとえば、2号機の格納容器圧力が突然ゼロになったことは、この一連の運転員たちの命を懸けた居残りと大部分の退避というドラマ(政府も巻き込んだ)だが、それがどういうことであったか(未解明)という説明がない。
他方、『チェルノブイリ』の後半は、事故解明と責任の追及を克明に描き、ソヴィエト連邦という大きな体制の崩壊が示唆されるレベルまでを追及している。主人公のレガソフに、体制の優位を喧伝し、自らをもだましてしまうシステムがこの事故を起こしたのだ、と語らせている。その意味で、大人の歴史検証にも言及する内容になっている。『Fukushima 50』は、熱がこもり過ぎた「人間ドラマ」といえようか?

 

3.ヒーロー物語から客観的視点へ
 どんな映画を作ろうと余計なお世話、野暮なおせっかいであろう。願わくは多くの方々がご覧になって、原発の本質が「命がけのヒーローが必要なシステムだ」ということをこの映画で理解されることを祈りたい。特攻隊を必要とし、英雄を生み出す設備は人道上あってはいけない。その意味で、上に述べた野暮な言葉は忘れてもらっても構わない。
民生用のユーティリティを産出する産業システムにおいて、命を懸けるに値する設備は、この世に一つもない。現在、各所の原発で1基あたり2000億円ほどの費用をかけてつぎはぎを当てているが、いくらつぎはぎしても事故の起こらない技術プラントができるわけではない。
 


※1.海渡雄一『東電刑事裁判で明らかになったこと』彩流社、2018年,pp.13-14、拙著『原発フェイドアウト』緑風出版、2019年,pp.204-208
※2.宮崎・木村『東電テレビ会議49時間の記録』岩波書店、2013年,pp.98-100